人間力
社会に出て人間力とか言うじゃないですか。あれって先生はどのように考えてますか。人によってその価値観って違ってると思うんです。
情熱があったり、礼儀正しかったり、陽気で社交的であったり、人たらしであったり、いろんな尺度がある。そのバロメーターは人それぞれだと思うけれど、処世するにあたってはそのバロメーターは高い方がいいに決まってると思います。その方が幸せになれる可能性も高いし、自己肯定感も強い。人生を否定する人間というのは自分のことが嫌いになってしまった人達のことなのだと私は思うんです。わたしは世間に受け入れられなかった、自分の性格が好きじゃない。でもそれは変えられるかもしれない。
礼儀正しい人間はそうでない人間よりも生きやすくなる。目上の人に気に入られるし、いろんなことを教えてもらったり、支援がもらえる。だから人は礼儀正しく生きるべきだ。子供にちゃんと礼儀を教えるべきだ。
私自身は無礼な人間です。人当たりも悪いし、目つきも悪いし、ハキハキと喋らない。そんな人間が上司の信頼を得られるわけがない。
人間力のないというのはどういうステータスの状態だろうか。目標がない、
人間力には世界を広げていく力がある。世界が広がるというのは交際範囲が広がる。それとともに考えることもまた多岐に渡るようになる。
私たちはいつおじさんになり、おばさんになるか。
新宿パンチ
何故男はルミを店から連れ出したか。それはパンチ(邦正)がバッティングセンターで彼女に惚れたからだ。
何故この物語に惹きつけられるのか。どういう物語構造なのか。
男はパンチであることにコンプレクスを持っていた。
男がルミに惚れる、ルミはどうやら薬漬けにされて男に囲われているようだ、男はルミを連れて逃げ出す。そして女のために仕事を探す。
男は歩哨か。
今の時代こういうストレートな恋愛話はやらない。何故あえてやったのか。そこに風穴が開きそうだから、あえてこの作品をぶっ放したのだ。こういう馬鹿な男がみんな好きなのよ。
コンビニ人間
主人公は奇妙な人間である。例えば公園で死んでいる青い鳥を見つけて「焼き鳥にして食べよう」と母親にせがむ。この世間の「常識」から大きく外れた感性を持つ主人公はそれ以来「普通」になることを自分の生きていく方針としていく。
この物語で言う普通というのは結婚であったり、就職であったりする。世間は普通でない人間を排除するから主人公は自分を生き延びさせるために自分の歪んだ癖を矯正して世間一般の「普通の人間」になろうと努力する。
現代は普通であることを強要する。普通であることは即ち、コンビニの店員として世界の一部として、その歯車の一部として回っていくことなのだ。
主人公はそこに安心を抱く。普通の感覚から言えば主人公は変態である。普通の人間は男の子の喧嘩をスコップで殴って止めないし、学校の先生のパンツを下ろしたりしない。
主人公は「変」であることがどういうことかもわかってない。ただ命令を待っている。その命令の中で主人公は調和した自分を探している。
作者は一体何が言いたかったのだろう。アイロニーを込めて現代社会の歪さを描きたかったのだろうか。
現代は普通であることが困難だろうか。普通でないことの方が困難に決まっている。
上機嫌でいるために
内田樹の「街場の共同体論」を読んだ。
この人の思想の白眉は何だろうかというと、私にとっては師弟論である。つまり上機嫌で生き延びるためには私たちは学びを起動し続けなければならない、ということが書いてある。夏目漱石の「それから」にでてくる先生は学びの意欲を失った廃人である。今上機嫌な先生って、(まぁ先生に限らず)中々いない。機嫌よく生きるって中々難しい不機嫌な人間がいるということは周りにもそれを伝染させ、パフォーマンスを下げる。
近代になって師弟関係というものがなし崩しになった。それは時にいい結果を生み出した時もあったし、あまり芳しくない結果をもたらしたりした。例えばお笑いやロックの世界では、ダウンタウンが弟子入りせずに、吉本興業の養成所に入って、師匠なくとも成功することを証明した。ダウンタウンにとっては師弟関係が形骸化したシステムとして写ったのだと思う。
内田氏は