筋トレと劣等感

 

何故かくも人びとは筋トレに勤しむのでしょうか。それは美しくありたい、という理由であったり、強くありたいであったらは、100通りの理由があるでしょう。

 私たちは人生を、楽しむ必要がある。あまりに人生が沈鬱してしまっていて面白くないのだ。つまりみんな糞真面目すぎる。そんな糞真面目が最近やたらと鼻に付く。もちろんそれは社会通念上は正しいことかもしれないが、アウトサイドに出てみた時それらは閉口ものなのだ。

 私はその人達を、こう呼ぶ。タイクツサンと。

 

かくいう私も劣等感を拭いさるするために筋トレをしている。筋トレによって自分が変わっていくことを楽しんでいる。変化することがもはや私の宿命であるかのように。もはや変化なしには、耐えられない。同じ地で似たような仕事をして過ごす。そんなのはただの前時代的だ。

 

昔々変化を厭わない少女がいた。その少女は自分の顔が好きじゃなかった。自分の顔が嫌いで仕方がなかった。それで自分の顔を整形するためにせっせと小遣いをためはじめた。まずは眼を二重にして、次に唇を分厚くした。それで以前のような劣等意識はフショクされたかのように見えた。

 女の子には新しく彼氏が出来た。女の子は孤独から逃れることが出来た。周りからもチヤホヤされるようになった。自分に自信が出来て積極的に、なんでもやるようになった。 

 彼女は整形によって人生が変わりうる、と信じた。

 

 昔々貧相な身体の男がいた。名を剛と言った。男は身体が弱いことでイジメの対象になった。ある日は下駄箱においてあった靴が隠され、ある日は意味もなく殴られた。かれにとって現実は地獄以外の何者でもなかった。

 ある日彼の思考は転回する。ある人どの出会いによって。その人はカオナシさんと呼ばれていた。その人の思想に圧倒的影響を受けることになる。彼の思想は恐ろし食った単純なものだった。即ち「力こそ正義であり、弱さは卑劣を招く」というものであった。弱さは人格をも変化させ、現実に立ち向かわせる勇気を奪う。だから人間は自分のためにこそ強くあるべきだ、というのが概ねの趣旨だった。

 男はカオナシさんから手紙を受け取り続けた。そして毎日ストリートファイトに身を投じるようになる。最初は負けが続いた。 

 それと同時に毎日街に出て女の子を口説いた。最初は負けが続いた。無視され、あしらわれた。そのたびに「おれは何をやっているんだ」という想いがあった。しかし、これはカオナシさんかは与えられた試練だと想い毎日必ず女の子に声をかけ続けた。

 それは整形女だった。しかし男はその女の子に惚れてしまったのだ。

男はやがて3人の女を追い出した。どの女の子も魅力的だった。カオナシさんは法制度を批判した。 それはアナーキーな思想だった。カオナシさんには愛人が5人いるということだった。そして今はクアランプールに住んでいるということだった。男は自分の欲望に忠実であることが魅力的な人間の条件だと考えた。

 カオナシさんはユーチューバーであった。毎日10分ほどの動画をあげては「大衆」を啓蒙をしていた。それが自らの使命であるかのように。カオナシさんは昔システムエンジニアをしていて、プログラミング を得意としていた。

 

「世界は本来甘美なもののはずなのに何故私たちはそれを味わうことを許されていないのか。それは私たちがそういう制度を作ってしまったからだ。村を作り街を作り国家を作り、徴兵制度をつくった。私たちは権力者達や資本家の手によって踊らされている。私たちの多くはそれに気づいていない。自由はあいつらのせいで奪われている」

 そして男はカオナシさんのようにユーチューバーとなり、人びとを啓蒙していった。それは劣等の啓蒙であった。

 

今日は京子とデートの待ち合わせの日だ。京子というのは例の整形女である。今日は動物園に子ゾウを見に行く予定だった。

 しかしながらあいにく子ゾウはいなかった。昨日から具合が悪くてほかの檻に入れられていた。

 「ねぇビールでも飲まない?」

「なんか春樹の小説の1シーンみたいだな」

「そうね。でも私あの人の小説嫌いなの」

 

あなたにはエリート意識がないのよ。いやいやなくていいんだよ。そんなもの。

 幸せになるためなら筋トレにお金をかける。

 

よく夢をみる。南仏の温暖な気候の中をスポーツカーでフランスの美人とドライブしていたり、そういう甘美な夢だ。そういう甘美なものを感じられるかが人生の醍醐味だ。大人しく終わるなど糞くらえだ。

 

劣等感というのは人間の醜悪さに対しての弱みを抱くことだ。

 21世紀は分断の世紀である。人も国も働き方も、それは自由と表裏一体である。

 

みんな劣等意識をもっている。

 

エレンもミカサも太宰も三島由紀夫も、長渕剛も。

 

時代は変わる。 

 

ひと昔前まで恰幅のいい人間が男らしいとされていた。今となっては贅肉を落としている方がモテル。いわばスタイルというのは時代を経るに従って変わっていく。腹筋が割れた女子があらわれた。家事を手伝う男子があらわれた。

 

愛のスタイルも、家族も、恋人との関係も、結婚も、共同体の在り方も、学び方も歴史とともに変わってきた。

 

文明はどこへ向かおうとしているのか?便利になった生活。私の眼は転回する。