小さな死

  フランスのとある作家はセックスの終わりを「小さな死」と形容した。欲望が死んだ時人はどのような境地にいたるのだろうか。仏のように無我の境地にいたるのだろうか。あるいは欲望が抜けたことによって阿呆のようになってしまうのだろうか。

 現代は阿呆の時代である。政治家も大衆も大きな幻想の中を生きている。政治家は選挙で当選したいから、大衆に歩み寄って迎合し、政策を打ち出す。しかしながら、大衆は自分の権利しか主張しないから政治のパースペクティブも小さくなってしまう。政治家も3年もしたら現実に打ちのめされ己が理想を忘れる。 

 日本の政治が動かないのは、僕ら国民の責任でもある。僕ら一人一人の国民としてのレベルをあげていかなければ到底国家は敵の侵略から守ることは出来ない。国家を考えているから偉ぶらなくてもいい。

 僕ら日本国民は小さく死につつある。もはや守るべきものが何かもわからないぐらい頓馬してしまった。誰かがいっていた。民族としての矜持を失ったら、他国の文化を無批判に享受し、その外国の奴隷となるだろう、と。

 しかしながら90年代に小林よしのりの『戦争論』が出ると人々の感情の中に怒りというエッセンスが思い出された。長い間僕らは戦争のことを忘れ、国が蹂躙されたことも忘れていた。それは共有されるはずの物語だったが、それもGHQによって日本人は平和な民族へと淘汰された。もう逆らってこれぬよう、安い「平和」の中で、僕らはパッケージングされたのだ。

 平成の世において何が不満とされているだろうか。金がない、そんな幼稚なことしか考えられなくなっている。

 中東の若者は信念を持ってテロリズムをやっている。命を投げ出す覚悟がある。彼らは彼らなりの信念があるのだ。アメリカに対して、意志表明を果たし、「俺たちはお前らのいいなりにならない」と自棄で示している。

 翻って日本人には命を投げ出すような真面目さなどない。みんな楽して生きることを、夢遊病者のように夢見ている。こんな世界は退屈である。もっと世界は混沌としていい。

 

 性欲、食欲、睡眠欲。人間の三大欲求。