存在の呪縛

 現代の呪縛は「個人の自由」を求めることにある。それは否応なくアナウンスされた。自由を掴め、と。個人は明治には立身出世主義が流行り、田舎の志ある青年達は学者や大臣のポストを狙おうと必死に勉強した。

 バブルの時代、どのような物語が若者の心を捉えていたか。例えばこんな物語だ。若者は車を乗り回して、女の子を口説いてそれをステータスとした。そういう生活は主流ではなくなりつつある。それじゃあ今は何がステータスとなっているのか。

 

 

マジョリティーは車を持たない。なんなら彼女もいらない。彼氏もいらない。欲しいのは自分一人の自由な時間である。そこでアニメを見たり、海外ドラマを見たり、将来のために資格の勉強をする。彼らは誰かと時間を共有したりすることに価値を見出していない。もちろん寂しい。だが、彼らにとっては2人一緒にいても孤独を感じる。彼らは誰にアナウンスされたわけでもないが、そういう無機質な時間を好む。そちらの方が楽だから。誰も傷つかないし、血も流れない。それよりはゲームをしたい!勉強して自分を向上させたい。彼らは結婚にも価値を見出せない。見知らぬ他者と一緒に生活をしていくことがうまく想像できない。

 普遍的な価値など現代人は共有していない。そういう時代は終わったのだ。今日の価値観は「人それぞれ」という相対主義の中にある。絶対的な価値などない。人々は先の大戦で絶対的な価値などないということを学んだ。絶対的な価値が戦争を引き起こすのだと学んだ。これがポストモダンの世界である。もはや「おおきな物語」はない。そこにあるのは個人個人が自由を求めるちっぽけで幼稚な闘いばかりだ。僕らは長い間成熟という言葉を遠のけた。マルクス主義も革命も僕らを駆り立てない。もうよそうこのような論議は何ものをも生み出さない。

 僕らはまた新しい「物語」を生見出さなければならない。現代は痛みが隠蔽されている。時代の空気は孤独を生み出した。孤独こそが現代の痛みである。それを癒やす手立てはあるか。それは「家族」である。それは血の繋がっていない家族であり、繋がっている家族である。僕らは共同体を復活させなければならない。地域を、世間を、あなたの近くにいる人々を愛するのだ。僕らは痛みに耐えかねて、自傷したり、時に無差別に人を傷つける。何故か。それは本当は他者と結びつきたいが、その方法を失ったからである。彼らは橋をつくれない。言葉を話せない啞であり、歯がゆさは自傷へと至る。

 否、現代は痛みさへないのだ。何も感じない、何にも傾倒しない。ほどよくニュートラル。そんな傾向が、僕らの時代だ。だから、自分の主張を持たないし、意見もない。政治に対して問われれば、返す言葉を持たない。そう、僕らは言葉を失ったのだ。

 失語症。コミュニケーション不履行。

 女の子たちは思想を持たない男たちに退屈し、男達は女の子の膝に跪いた。おじさん達は家庭で妻や娘から邪険にされ、居場所がない。

 

 「諸国民の民よ、団結せよ!」

 マルクスはかつて共産党宣言のなかでこのように述べた。そのイデオロギーは人々を結びつけたが、その資本家排斥の思想は大量殺戮、粛清を生み出した。それは魔女狩りのようだった。資本家を異端として排斥したのだ。思想は人々を結びつけはしたが、

 

 我々日本人は弱体化したか。誇りを失ったか。

言葉を失おうとしている。

 新しい分断の時代。排斥の時代。個人個人が個人に対してルサンチマンを持つ時代。

 私達は何ものをも信じない。そう言った時代にいきている。snsは世界を拡張したが、本当の友達など中々できない。 個人はユーチューブやニコニコ動画やブログやらで自分のメディアを持ち、啓蒙家になったり、自己啓発を促し、フォロワーを獲得する。

僕らはそういった時代に翻弄される。 

不安と恐怖に支配された現代において安息地はあるのだろうか。

 

私は何を言おうとしているのか。無思想の時代を感嘆して、過去の革命の時代を憧憬しているのだろうか。時代はどういう時代に突入したか。インターネットによる、デジタルコミュニケーション。フェイスブック、インスタグラム、tiktok

時代は「笑い」をもって呪縛を解き放とうとしているかのようだ。

 

私達はかつてあらゆる権威を否定した。性、神、父権、伝統、慣習、それらを否定することによって僕らは縛りを断ち切った。やってきたのはのっぺりとした自由だ。

 

絶対の希求。探索者達は絶対を求める。

 

 私達は呪われている。近代人として生きる宿命、平凡な死しか与えられていないということ。

 私達はどこからを来て、どこを過ぎどこへ向かうのだろうか。どのような経済生活が、文明が、私達を規定しているだろう。

 私達は呪われている。社会システムによって。

 そんなことを言うと反社会的なは人格と思われるかもしれない。

 憎悪、怨恨、ルサンチマン現代社会に蔓延る悪徳の数々。金の力によって私達は変化した。質的にも量的にも。金があれば幸せにはなれないかもしれないが、不幸の要素の一つである貧乏からは脱することがらできる。そう言うひともいるかもしれない。

 しかし私達が子供であったころ、金がなくとも楽しくやっていたはずである。例えばサッカーボールひとつと少しの友人がいれば十分に満ち足りていた。そう言った時間と空間を私は失った。私達はあまりに求め過ぎたのだろうか。

 

私達は自分自身によって呪われている。私達は「私」を生きなければならない。それはもうすでに走りだされている物語なのだ。

 

「なんでもいいから、僕は話し喋り続けるよ。君と、誰かと。僕も30歳になった。いろんな人間に会った。だけど、この世界は依然変わらず混沌としている。僕はいつも分裂していて、幼稚なままだ。さぁ、血を流せ。汗を流せ。時はきた。」

 

私個人の生活を紹介しよう。「私」は世間一般のある精神的疾患をかかえた「私」である。この「私」というのは必ずといっていいほど病を持つ。それは近代の「私」が不安定だからである。

 先日、川崎市で無差別殺人事件が起こった。何故そのような事件が起こったのか。被疑者は孤独を抱えていた。彼は「彼」自身に呪縛されていた。私達はいつ「彼」のようになるかわからない。みんなそのような可能性を秘めている。

 

心理学が登場してから、人は何に支配されているか、を深層意識の側から説明しようとした。フロイトはセックスの抑圧が神経症を発症させているとした。 

 現代の作家達は何を希求しているだろうか。村上春樹氏は井戸を降りて私達が共有している物語を構築している。

 私達の生活から偶然性が無くなっている。

 

私達が孤独から解放されるのは人と語らう時、みんなで歌を歌う時。この世は一期一会。ひとつひとつの出会いを大切にしよう。平凡かもしれないが、隣人を大切にしよう。 

 

「私達はいかにして自分自身によって縛られているか。私達は自分自身と向き合い、何が足りて、何がたりないかを検証しなければならない。私達は自分自身の監督であり、コーチであり、脚本家でなければならない。私達は完璧な存在じゃない。不完全な存在なのです。だから、よくよく人間を検証しなければならない。

 また言葉がいかにして私達を欺くかも私達は知っています。言葉は私達にとって思考の道具であり、また伝達のツールです。

 時に私達は自分自身に嫌気がさして、自死する人間もいます。あるいは怨恨感情が募り、社会に牙を剥く異常犯罪者もいます。彼らは特異な社会環境の中で子供時代を過ごしていたり、十分な愛情を受けずに育ってきています。ある人間は彼らを悪として排除します。彼らは理性によって自分自身を統御出来なかったのです。彼らは社会にとって害悪でしかないのです。社会の秩序と調和を保つためには、国家が裁くしかありません。それがいやならば、「復讐」を認めて、目には目を、歯には歯をの無限の暴力の世界に行くしかないでしょう。しかし、それは資本主義社会にとっては不合理です。私達は異常者がいたら排除するのです。

 私も精神疾患を抱えています。鬱病です。鬱状態になると死ぬことしか考えていません。つらいことです。自分の死を願い続けるのですから。 

 中東のテロリスト達は祖国のために死んでいく。彼らには見える抑圧がある。アメリカニズムに対する嫌悪である。しかし今の日本にアメリカニズムに対しての嫌悪はあるだろうか。誰が、祖国のために命を投げ出して抵抗するか。左翼も右翼も言葉遊びに終始して状況は変わらない。 

命を弄び、蔑している。自分の欲望が叶えられなかったら他者を無差別に殺す。命が朽ちていく。 

 

いのち       長渕剛

 

 雨が降っていた

土砂降りの晩、

濡れた地べたに

傘を突っ立てた

 

しゃくりあげた瞬間

喉をかっきり悔しさを

幾度もタバコの火で焼ききった

 

海になりてぇ 激しくうねり狂うほど

 海になりてぇ あれは確か俺19の冬だった

 

中途半端な親切よりもっとしゃにむに生きた

中途半端な慰めなどより、振り向かず走り抜く命が好きだった

 

風が言葉になった

吹きさらしの言葉から

心という響き探した

 

裏やさしい母の愛より

物言わぬ親父の背中に

甘え抱かれたかった

 

正義に倒れ死んでいったもの達の墓の上に

 こっそり唾を吐き弱者を気取る大馬鹿野郎

 

務所も娑婆も流れる水はやっぱりおんなじだった

うらさびしい人情の影の荒くれた厳しい命が好きだった

 

道は後ろにあった

過去と言う名の貧弱な俺の

足跡があった

 

逃げても追いかけた

逃げる自分を許さぬもう一人の俺が

 

強いものほど細やかな風に泣き

みっともないくらいの恥を誇りに思うものだ

 

すたれて貧しくたかるような大胆不敵より

乱拍子で脈打ちながら希望へかじりつく命が好きだった