坂口恭平と生の脱構築

 僕らは一体何を常識として生きているのだろう。自分たちが当たり前だと思っていることが昔の非常識だったとしても、僕らは一向に構わずにこのハイテク世界を生きていくのだろう。その中で動植物や自然は淘汰され、キャピタリズムは肥大していく。

 「森を倒すな!山を崩すな!小さき動植物を蹂躙するな!」

 そのような「声」が聴けなくなって久しい。いやむしろ今の感覚からすると狂人のようにみえてしまうのかもしれない。そのような振る舞いをする勇気をもつ人間がどれだけいるだろうか。南方熊楠のように闘うことが出来るだろうか。 

 

坂口は現代の生のあり方について考える。彼は建築家である。何を構築しようとしているのかというと、それは新しい生き方だ。彼は彼なりに生を脱構築したかったのだ。もっと違う生き方があるのではないかという直感があった。

 家賃も払わない、3000万のローンを背負うのも ごめんだ。彼はそういう男だ。

 反近代的に生きるということはとりもなおさず衣食住の独立にある。ガンジーよろしく、保田與重郎よろしく近代を卒業するには自分が生産者であり、消費者でなければならないのだ。それは古くからの経済の考え方である。

 資本主義の美徳とは何か?それは過剰性にある。過剰に生産し、消費し、お金を使うことである。それで誰が得するか。上は日本銀行の株主から下はサラリーマンまでとにかく経済を回すことが重要なのだ。そのような社会の中で生きていれば感覚がおかしくなるのも無理はない。金は欲望を満たしてくれるし、欲望は無際限に開発していけるのだから。